1月9日から東京に行くことにした。
一番の目的は東京都写真美術館でウジェーヌ・アジェの写真が展示されているので、それを見に行くことに。
ウジェーヌ・アジェの写真は以前から好きで時々、写真集をめくることがあった。
淡々とパリの街並みの風景をモノクロで撮影した昔(1857年2月12日 – 1927年8月4日)の写真家という認識
があり、正直なところ表現性の欠片のない風景写真。
表現性とはほど遠い写真で、表現性がない代わりに記録性が浮だった写真でもある。
アジェの写真は作品か?
ユーチューブにアジェの写真の動画がアップされてあるので、それを見てもらえばどういう写真を撮って来た人
なのかわかると思う。
なんの変哲もない写真なんですが、その当時の古き良きパリの街並みが写っているわけで、写真の記録性を痛感
する写真でもあります。
アジェが写真を撮る以前は俳優だったそうで、その後劇団を解雇され絵を描き始めたそうだ。
昔の写真家に多い、元芸術家ってやつです。
アジェが写真を撮り始めたのは40歳を過ぎてから。
最初は路上で商いをする人々の写真を撮り始めたらしい。
その後は生活のために「芸術家の資料(documents pourartistes)」という看板を掲げ、写真を売る生活を始めた
とのこと。
要するに資料の写真を撮影していた写真家であるわけで、アーティストではなく単なる職業写真家だったようで
す。
あのパリの街並みの写真はアジェが撮りたくて撮った写真というよりは、依頼されて撮った写真と見るほうが自
然なのかも。
ちなみに画家のユトリロがアジェの顧客だったことは有名で、ユトリロが資料としてアジェから写真を購入し、それをもとに絵
を描いていたという。
そういえばユトリロの絵とアジェの写真は良く似ている。
前ふりは長くなりましたが、要するにアジェの写真は作品として撮られた写真ではないということ。
今の時代では「写真やってます」と言って何かしら作品として撮られた写真ではなく、表現を目的とされた写真
でもないということ。
しかしなが、「芸術家の資料」として撮られた写真が何で魅力があるかと言うと、撮る側の思想や哲学に埋もれ
ることもなく、目の前に写る風景を淡々と記録した写真だからだと思う。
個人的には写真の表現性よりも記録性に強さを感じますね。
支離滅裂な文章になってしまいましたが、最近の自分の写真に対する心境が、アジェの写真のように淡々と街を
撮りたいという思いがあり、来週に見ることになるアジェの写真のことを考えると、ちょっと興奮気味でブログ
記事を書いてみました。
昨年、東京のタカイシイギャラリーで見たルイジ・ギッリの写真も自分の中でアジェと通じる部分もあり、ルイジ・ギッリの写真をすでに見た後なので、アジェの写真もまた違った目で見ることができるかもしれない。
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